日本の出版界王 大橋佐平(おおはし さへい)(1835~1901)
近代長岡で異才を放った人物が52歳で上京。出版社博文館を創業して大成功。書籍取次、通信社、洋紙業、印刷業など時流の先を読み時代の先頭に立った。
天保六年(1835) 12月22日、長岡城下上田町の油商人の二男に生まれる。
生家は資産家であったが幕末の頃衰え、復活を願い長女に奉公人又七を迎え、その二男が佐平である。
幼名を熊吉といい、父に似て神童と言われ、4歳で百人一首を覚えそらんじた。7歳から読み書き、算盤を習い、敏捷で負けず嫌い。ガキ大将であった。
15歳の時、飛脚に従い京都、四国、九州、江戸を回る。この経験が後の佐平に役立つ。
22歳で酒造株を買い、独立して三国屋佐平と改名。長岡藩御用達として発展。後、大橋の姓を譲り受け大橋佐平となる。
戊辰の役では恭順を唱え、佐幕派に命を狙われた。
戊辰戦争後は長岡商人の代表の一人として町の復興に尽力。学校を造り人物の養成が大切と主張し、市中学校、長岡分黌、長岡洋学校の設立に尽力した。「商売往来」「万国公法」などを教科書に取り入れるなど実学性の高い教育をした。
文明開花・殖産興業の策に沿い、郵便事業、内国通運会社の代理店、北越新聞の創刊など、次々と新規事業を立ち上げ、商業の発展を振興する「三夜会」など、町の活性化を図った。
しかし、自主革新を主張した佐平は、三島億二郎、岸宇吉らと意見が合わず孤立する。
明治19年(1886) 11月上京。小金井良精(長岡出身・解剖学) の斡旋で本郷弓町に借家し、出版社「博文館」を興す。娘時子の発案で、各雑誌から著名な論説を集めた「日本大家論集」があたり大ヒットとなる。続いて、実学的でわかりやすい内容の本を、若い編集人を起用し発刊。「日本の商人」「日本の法律」など、現在のハウツウ物の最初のもであった。
これが明治維新の新時代に合致し、博文館の名前は日本全国に知れ渡り、出版関連の取次店「東京堂・日本堂」の開業、内外通信社の創立、洋紙輸入など、出版界、印刷業の分野で今に通じる機構や取引の実用性を確立した。
晩年、大橋図書館の建設に取り組んだが、明治34年(1901) 11月3日、66歳で没した。